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2011年3月13日 (日)

大地震。

大地震きました。

とりあえず家族全員無事で、夜は近くの公民館に避難しております。

郡山は電気水道のライフラインが確保できているのでとりあえず大丈夫です。

ただ原発の件が心配。。。
枝野の発表は5割減で聞いといていいですね。

地震の犠牲者の皆様に黙祷しつつ。。。。。

Shiyakushotubure

地震当日、市役所で打合せを終えて、熱海方面に向い10分後。。。

ドーーーン!と地震が来ました。

タイヤがパンクしたと思い、路肩に停めたら凄い揺れてるんで地震と認識。

これは只事ではないと、慌てて家に戻る。

あとは皆様ご存知の通り。

昨日、書類を出しに市役所に行ったら。。。

市役所展望台がペシャンコ。

怪我人は無かったようですが、ゾッとした。。。。。。。。

2011年3月 6日 (日)

【代々木八幡DAYS ③】

この頃、オRIGINAL LOVEでアルバムを作るという話が持ち上がる。。
田島くんがPizzicatoFiveへの参加を要請され、契約上オRIGINAL LOVEとしての音源を出せなくなってしまうと言う話で、これには困った。
が結局、オRIGINAL LOVEのライヴ活動も並行して行うと言う条件で田島くんはPizzicatoFiveに参加する。

会社を辞めた4月はほぼレコーディングに費やした。
元はちみつぱいの和田博巳さん(現在はオーディオ評論家として活躍中)のプロデュースで目黒のVIVIDサウンドのスタジオで録音したのだが、前年に録った『CAUTION』や『Body Fresher』やら『X’mas no Hi』も寄せ集めて入れた。
なのに何故か統一感があるのは、エンジニアの藤井暁さんのおかげです。
この人は超長髪で年齢も謎なヒトなんですが、聞けば聞くほどおそろしいキャリアの持ち主(聞かないと教えてくれないけど)。優しく厳しく色んな事を教えてもらいました。
(後にPuffUpレーベルを主宰し、篠田昌巳のコンポステラや名盤・「東京チンドン」を世に送り出します。)

Ol1st1_2

アナログLPと最初のCD化再発では1曲目が『Body FresherⅡ』で最後が『Body Fresher』なのだが、この曲順は田島くんも最後まで悩んでいた。
ギリギリになってⅡを1曲目に持ってくる決定をしたのだが、田島くん的にはそれは後々まで悔いが残っていたようで、今回の再発に当たってこの2曲は曲順を入れ替えることになった。
(さらに田島くん自身がリマスタリングを行い、立体的な音に生まれ変わった。マジで全然遠近感が違います。)

Ol1st2

この1st『オriginal Loヴ』の中では、VIVIDサウンドで録音したのは
Body FresherⅡ』、
Mr.Big Rock』と
アコースティックバージョンの『Talkin’Planet Sandwitch』、
DARLIN‘』、
Mr.Big Rock』と
Orange Mechanic Suicideの6曲。
Mr.Big Rock』と『Orange Mechanic Suicide』は、田島くんがイメージボックス(当時の和田さんの事務所)で録音した打ち込みのデモをベースにVIVIDで全パート差し替えた。ハンドクラップだけデモテープの音が残っている。
Body FresherⅡ』の録音には村山くんの早稲田人脈でモチ肌の美少年・宮腰浩基くんas善方くんtsにムスタングAKAの西岡くんtpがホーン隊で来てくれた。3人とも名前にヒロが入るので『3Heroes』とクレジットされている。

僕はと言うと、ちゃんと録音してみると自分のリズム感の悪さ、タッチの汚さ等色んな事に凹んだ。
正直、納得いかない盤ではあったのだが、ま、今思えばそれは実力でしかないからね。
僕も鼻息は荒かったけど、自分のダメなところが客観的にわかって実は結構ヘコんでこのあと猛練習してたのよ。
村山くんもこの盤には納得いってなかったようだけど、『Orange Mechanic Suicide』のギターソロは、彼の良いところが凄く良く出た名演だと今でも思う。
繊細さとか瑞々しさとか。最後の一音がコーラスの中に溶けていく所とかとても良い。

Oljalajala_2

Ol1stsetagaya1

ジャケットの写真は和田さんの知り合いのエマニュエル・ルベという写真家のもの。
裏ジャケのメンバー写真は中森泰弘さん(ハワイズ~ペイズリーブルー~のちロッテンハッツ~ヒックスヴィル)にお願いして、世田谷美術館の裏庭で撮った。
レーベルはJALAJALA(ハラハラ)レーベルということになり、レーベルロゴはやはり和田さんの伝手で河村要助さんが描いてくれた。
夏のレコ発ライヴではレコ発なのにレコードが出来てないということもあったのも、今となっては笑い話です。
レコ発のビデオを見ると、田島くんがMCで
『たのむヨ、広川さん(VIVID)!』

と何度も言っている(笑)。
1stLP発売時に「少年とスプーン」のソノシートプレゼントがあったと言ってる人もいるが、実際には上記のような事情で、レコ発で予約してくれたお客さんに申し訳ないので特典として87年秋の吉祥寺バウスシアターでのアコースティックヴァージョン(僕が仕事でどうしても参加できなかったので3人編成)のカセットを付けてあげたわけ。持ってる方、これはレアですよ~。

88年に入るとネオGSムーブメントも終息する感じで、4月に九段会館で行われた近代映画社主宰のイベント以降、各バンドとも個々の活動に戻っていった感がある。
今回の再発ではこの時のライヴ映像『Body Fresher』がDVD化されて収録されている。
若さみなぎるワレワレ。細い(笑)。
25年の時を経て開けたタイムカプセルに昔書いたラヴレターが入っていたような気恥ずかしさはありますが(汗)、若いって素晴らしい。
この時は、会場入りしたらステージ袖でオリくんがニマニマしながら、
秋山さ~ん、僕は感激だよ~~。だってさー、アンディ・パートリッジがここに立ってたかと思うとさー。(XTCただ一度の来日公演はこの九段会館だった)」
と悦に入っていたのを憶えています。
可愛かったな、あん時のオリくん。
今でこそ真冬でもシャツの第3ボタンまで外すワイルドガイになってますが、実は一番育ちが良い感じだったのはオリくんでした。

Sgwneck

この頃から村山くんがダブルネックギターを導入したんだった。
ごく初期は村山くんがシンセも弾いていたのだが、それをやらなくなってからは1曲の中で6弦と12弦ギターのサウンドを使い分けられるのは非常にアドバンテージだった。
(ケースがデカいので「イカダ」と呼ばれていた。当然重さもギター2台分あるのでいつも彼は「オレにボウヤを付けてくれ。。。」とヒイヒイ言いながら持ち運んでいた。)

Ol1stsetagaya2

活動の方は田島くんの掛け持ちでスケジュール調整が大変だったが、動員も増え、順調にこなしていた。
1stアルバムはけっこう評判もよく、初回プレスはあっという間に売り切れた。
これを機にいろいろな所からライヴのお呼びが掛かるようになった。
ラママでは念願のワンマンライヴもやらせてもらったし、六本木インクスティッククロコダイルなどでも演奏するようになっていた。
田島くんの契約の関係もあり状況的には閉塞していたのだが、田島くんがピチカートでしごかれて得た作編曲のノウハウはオriginal Loヴにもフィードバックされていく。
ライヴでは音楽性もめまぐるしいイキオイで変化していってて、じつはこの時期からが一番面白かったんじゃないだろうか。
この頃になるとコーラスで元ペイズリーブルーの2人(真城めぐみ栗原晴美)とサックスの宮腰浩基asくんもほぼレギュラーでライヴに参加するようになる。
最終的にはかなりユニークな音楽性のバンドになっていたと思うのだが、この時期に音源を記録しておかなかったのは実に残念ではある。。

オRIGINAL LOVEの88~89年もライヴで明け暮れた。
年越しライヴのハシゴ(ラママ~六本木インクスティック)をしたうえに1月の6日にもライヴを入れてしまうという無謀さ。学生が冬休みだから客が入らないかと思いきや、意外と入った。
六本木インクスティックで演ったあと、渋谷に流れて4人で朝まで呑んでいたら、店の人が
「。。。。いよいよまずいみたいだ。。。ちょっと早めに店閉めさせてもらっていいかい。。。。」
外に出ると、濃い霧が東京中を覆い、体験したことの無い静謐な雰囲気。
いくら朝の5時とは言え、こんな不思議な空気の東京は初めてだった。
これが昭和最後の日だった。。。。。

【代々木八幡DAYS ④】 に続く・・・・・・・
※メンバー写真およびLP裏ジャケ写真は撮影:中森泰弘
※なにせ昔のことなので、記憶が曖昧なところがあります。時系列的にもしくは事実関係的に「こうじゃなかったっけ?」というご指摘ありましたらコメントお願いします~。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
タイムマシンに乗って25年前からやって来た謎のニューウェーブバンドRed Curtainのデビューアルバム!(田島貴男・談)
Redcurtain

『RED CURTAIN (Original Love early days)』
(WONDRFUL WORLD RECORDS  WWCD-005)

なんとインディーズ時代の1stにRED CURTAIN最初期のライヴテイク(86年at和光大学。多分4人編成になって2回目のライヴ。)を加えて、さらに九段会館での演奏をDVDで付けてあるとい う企画。。。。初期衝動というか余りにも突っ走りすぎのレアテイクが収められています。恥ずかしいっちゃ恥ずかしいですが、もう25年も前の演奏ですから な。客観的には見れますが(大汗)。本文にも書きましたが、田島貴男本人によりリマスタリングされて遠近感のある太い音質になっております。

2011年3月 2日 (水)

【代々木八幡DAYS ②】

RED CURTAIN初ライヴは渋谷のラママだった。

Mnoflyer1

対バンはレザレクション
青山陽一くん擁するグランドファーザース
そして木暮晋也くんたちのワウワウヒッピーズ(彼らも初ライヴ)。
ブッキングもまだしてもらえなかったので貸切料金を払うため、死に物狂いでチケットを売ったなあ。200人ぐらい入ったんじゃなかったかな。
ラママのブッキングマネージャーだった大森さんもそれで認めてくれて、次からは企画でブッキングしてもらえた。
ワウワウヒッピーズの登場は衝撃的だった。ムッチーvoの雄叫びと木暮くんのファズギター、そしてキヨシbとケンちゃんdsのリズム隊は既に独自の世界を完成させていた。やられた!と思ったなあ。
グランドファーザースも青山くんの独特な曲と西村哲ちゃんのギターにKOされた。太田さんbがスキンヘッドで怖かったのを鮮明に憶えています(笑)。

この時くらいまでは、僕も就職もあったので「とりあえずライヴまでは手伝うけど。」とか言ってたんだけど、すごくライヴでの高揚感があったのね。
この後どうするかという話になって、「やるんならちゃんとやろう。」と言ったのは憶えてる。
この頃から演奏していた『少年とスプーン』のデモテープには衝撃を受けた。
なんとこの5拍子の曲、詞と曲が同時に出来たと言う!
田島くんの才能を世に出すのが自分の役目だと思った。(それは多分オリくんもそうだったと思う。)

‘86年は和光大学の学園祭で演奏したあと、ファントムギフトの青木さんの紹介でミントサウンドのオムニバス『Attack Of Mashroom People』の話が来た。
田島くんと2人で幡ヶ谷のリハスタQUEにカセットMTRを持ち込んでドラムを録音した。
マイクは3本だけ立てて、BDとスネア、HHとシンバル3枚のみという潔いセットで録音。
しかしイキオイだけでしたな~。いまこんなに速く手が動かんもんな~。
ミントサウンドStinky小森さん宅で8trのオープンMTRにドラムのトラックを移してダビングし、年明けには 『Talkin‘ Planet Sandwitch』が完成。
これが春先ぐらいに出て状況が一変してくる。

Mashroom

オムニバス『Attack Of Mashroom People』にはいわゆるネオGSと呼ばれるシーンの人たちが多数入っていて、ここで繋がりが出来て87年春からはネオGS系のライヴに多数誘われるようになる。
そのなかでもRED CURTAINはサイケと言えばサイケだが、少なくともGSのくくりには入らないし異質だったように思う。
僕らもあれに乗っかってマッシュルームにしてたりサイケなものやってたわけじゃなくて、そういうシーンがあるのも知らずに60年代の音楽から80年代の音楽まで雑食状態で聴いてて手探りでゴチャマゼな音楽を作ってて、たまたまファントムギフトと知り合ったらそんなマニアックな奴らがいっぱいいて。。。て感じでした。
ネオGSというとキワモノぽいイメージが強いが、実際にはサイケぽい匂いのするバンドなら十把一絡げにされていた。
このオムニバスに入っていたバンドだけでも、
モッズぽいコレクターズ
初期ビートルズぽいストライクス
サイケで骨太なマディランプス20HITS
中野くんの踊りがカッコよかったヒッピーヒッピーシェイクス、
元ジューシイフルーツの沖山優司や80’s東京NWを代表するギタリスト・ブラボー小松などの先輩ミュージシャン、
僕の後にオriginal Loヴで短期間ドラムをやることになるヨシエちゃんがいたチーズなどのガールズポップ、
木暮くんたちのワウワウヒッピーズ
そしてネオGSの旗頭・ファントムギフトと音楽性はバラバラでした。

この頃の音楽シーンというと、一般世間的にはバンドブーム前夜。ボウイの大ブレイク直前だったりレベッカなんかが流行ってた頃。
ライヴハウスシーンではナゴムレコードが全盛期だったり、U2みたいなニューウェイヴ系のバンドが多かった様に思う。
ネオGSと呼ばれてたバンドたちは意外とみんな真面目に音楽を追求してた。
みんな何より【人と違う音楽を『ポップスとして』やる】
ということに関して追求心があった。
あの頃の所謂ニューウェイヴの人たちのスカした感じも、逆にナゴム系の感じもどうも馴染めなかった僕達にとってはそれはある意味居心地良かったし、ウチアゲでも音楽の話ばっかしてたよね。

Croco6Croco5

87年はラママを中心にかなり精力的にライブをこなしてた。
ネオGS関係以外のところからもライヴに誘われるようになって、僕ら単独の動員もちょっとづつ増えてきた。
お客さんも、GSギャルズが前で踊ってる一方、毎回最前列に陣取ってカセットで録音してる男子がいたり、ロリポップソニック(後のフリッパーズ)の小山田くんや小沢くんもいつもライヴに来てた。

演奏はとにかく虫のように突進するのみだった。
当時観ていた人は一様に「すげえヘタだったけどイキオイだけは凄かった。」と言う。
レコード会社も何社か青田買いに来ていたけど、演奏はイキオイだけだし歌詞も色恋の歌詞は殆ど無いしでどの話もまとまらなかった。
P-MODELの平沢進さんがライヴを観に来てくれた事があって、
「うーん、面白いと思うしやりたいことは解るけど、もうちょっと演奏を確実に。。」と言われた。
平沢さんはとても真摯にアドバイスしてくれて、何年か経って明大の学園祭で対バン時に挨拶に行ったら、その時は対等に接してくれてますます尊敬した。

Photo

一方、ストライクスの紹介で関西モッズ系人脈のヒビくんという人が企画したオムニバスに参加しないかと言う話が来た。
木暮くんの伝手で帝京大の講義室みたいな部屋でドラムを録り、ダテくん(現・魂列車1号)がエンジニアをやってくれて録音した『CAUTION』で参加する。
これは翌年忘れた頃に『GET SMILE!』として出た。

夏にはRED CURTAINからオRIGINAL LOVEにバンド名を変えることになる。
RED CURTAINだとサイケの感じが強いので、もっと幅広くと言うか一聴して何をやってるバンドなのか判らないバンド名にしたいと田島くんが言い出し、Feeliesの『クレイジー・リズム』の中の「オriginal Loヴ」という曲名をバンド名にした。最初は違和感あったけど、これは結果的には良かったと思う。

Mintxmas

オムニバス『Attack Of Mashroom People』が好評で、第2弾でクリスマスアルバムを出すと言うことになり、その録音も秋口にはしている。
ドラムはまたリハスタにカセット持込作戦で(たしか渋谷のペンタ?)、ダテくんがエンジニアをやってくれて録音した。
曲は、シャクだから隣の家に火をつけるという狂気のドゥーワップ『X’mas no Hi』。僕はシャッフル下手で苦しんだ。
僕もこの時期にはペイズリー・ブルーも手伝ってて、そっちでもこのオムニバス用に新宿のJAMスタで録音してる。
中森さんgマディランプスの仁見くんg吉本くんbノンちゃんkbで関西に2度くらいツアーも行った。腹の皮よじれるサイコーに面白いツアーだった。
秋には「オンリーユー」というミニコミのオムニバス用に下北沢のスタジオ・アンチノックで『Body Fresher』の録音もしている。

僕も就職もして昼夜無い仕事だったので忙しかったのだが、そこは若さに任せて仕事してリハしてライヴして呑んでと言う生活を送っていた。
のだが、ある店舗の仕事で1週間近く徹夜が続き、キレて記憶喪失騒ぎ。
どうもコケて頭打ってたらしく、その後2日ぐらいの記憶がない。
この頃流行ったリクルートのCMをもじって『週末、われを忘れる』と冷やかされた。
こりゃいくらなんでも体が保たんわと、88年春には会社を辞めて晴れてプータロー生活に。と言っても設計事務所でバイトはしていたが。

この頃、オRIGINAL LOVEでアルバムを作るという話が持ち上がる。。

>>【代々木八幡DAYS ③】 に続く・・・・・・・

※なにせ昔のことなので、記憶が曖昧なところがあります。時系列的にもしくは事実関係的に「こうじゃなかったっけ?」というご指摘ありましたらコメントお願いします~。

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実は、なんとこんなシロモノがリリースされることになってしまいました(汗)。

Redcurtain

『RED CURTAIN (Original Love early days)』
(WONDRFUL WORLD RECORDS  WWCD-005)

なんとインディーズ時代の1stにRED CURTAIN最初期のライヴテイク(at和光大学。多分4人編成になって2回目のライヴ。)を加えて、さらに九段会館での演奏をDVDで付けてあるとい う企画。。。。初期衝動というか余りにも突っ走りすぎのレアテイクが収められています。恥ずかしいっちゃ恥ずかしいですが、もう25年も前の演奏ですから な。客観的には見れますが(大汗)。

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